「まぁ! この小切手は……! は、はい! すぐにお包みいたしますね!」「お買い上げ、ありがとうございます!」2人の女性店員はペコペコと頭を下げる。「いいえ。こちらこそ素敵なドレスを選んでいただき、ありがとうございます。このお店に来て、本当に良かったですわ」笑顔のイレーネの姿に、青ざめるのはブリジットとアメリアだった。「ええっ!? ど、どういうことよ! あんな貧乏そうな女が平気で小切手を手渡すなんて!」アメリアがブリジットに小声で詰め寄る。「そ、そんなこと聞かないでよ! 私が知るはず無いでしょう! それにしても……あの女、一体何者なの……だけど……」気の強いブリジットは、店員たちがイレーネにペコペコする姿が気に入らない。「……何だか面白くないわ。これ以上ここにいても不愉快よ、帰りましょう。アメリア」「え? いいの? 彼女に一言も声をかけずに帰っても」「いいのよ。だって私たち、あの女の名前だって知らないじゃない」フンと腕組みするブリジット。今もイレーネは女性店員たちと親しげに会話をしている。「言われてみれば確かにそうね……それじゃ、帰りましょうか?」「ええ、帰りましょう」そしてブリジットとアメリアは談笑するイレーネたちに声をかけずに、店を後にした。もう少し店に残っていれば、もっと驚きの事実を知ることになったはずだったのに……。そんなことは露とも知らず、店員はイレーネに次の商品を勧める。「ところで、お客様。ドレスだけではなく、他にも靴やアクセサリーも当店でそろえられてみてはいかがですか?」「ええ、そうです。当店には有名なジュエリーデザイナーに靴職人も抱えているのですよ?」上客を逃してなるものかと、店員たちの接客は続く。「そうですね……一式、全て揃えられるならこちらでお願いします。私、どうしても自分の価値を上げなければならないので」頷くイレーネ。普段の彼女なら絶対にこのような買い物はしない。しないのだが、今回だけは特別だった。何しろ、ルシアンの祖父に認めてもらうために自分の価値を上げなければならないのだから。「ええ! お任せ下さい!」「私たちの手にかかれば、トップレディにだってなれます!」何とも頼もしい女性店員の言葉にイレーネは笑顔になる。「本当ですか!? ありがとうございます!」こうして、その後もイレーネの買い物
イレーネがマダム・ヴィクトリアの店を出たのは15時を過ぎていた。「まぁ……もう、こんな時間だったのね。どうりでお腹が空いたはずだわ」祖父の形見である懐中時計を見ると、イレーネはため息をつく。「どうしましょう……このままマイスター家に戻っても、夕食までは程遠いわね。それにしても試着するだけなのに、こんなに体力を使うとは思わなかったわ」1日2食の生活は慣れていた。ただ、今回は慣れない試着作業でお腹を空かせてしまっていたのだった。「何処かで軽く食事を済ませてからマイスター家に戻ったほうが良さそうね。何か食べるものを用意して下さいなんて言ってご迷惑をかけるわけにはいかないし」本来であれば、イレーネはルシアンの内定の妻。リカルドに軽食の要望を伝えれば、すぐにでも食事を用意してもらえる立場に自分があることを理解していなかったのだ。「さて、今度は食事が取れるお店を探そうかしら」そしてイレーネは鼻歌を歌いながら、マダム・ヴィクトリアの店を後にした――****16時半――「……はぁ〜……」書斎で仕事をしていたルシアンがため息をつく。「ルシアン様、またため息ですか? 既に7回目になりますよ? お茶でも飲まれてはいかがですか?」ルシアンにお茶を勧めるリカルド。「リカルド……」「はい、何でしょうか?」「お前は何回俺に茶を飲ませようとする? もうすでに5回目になるぞ?」恨めしそうな目でリカルドを見る。「やはり……おひとりで行かせるべきではなかったのではありませんか?」その言葉に、ルシアンの肩がピクリと動く。「一体、何の話だ?」「とぼけないで下さい、イレーネさんのことですよ。あの方のことが心配で、仕事もろくに手がつかないのではありませんか? 先程から同じ書類ばかり目を通されていますよ」「ち、違う! 書類を見直していただけだ!」リカルドに指摘され、慌ててルシアンは書類を取り替える。「全く、ルシアン様は素直になれないお方ですね……正直にイレーネさんのことが心配だと言えばよいではありませんか? だから本日は外出せずに、こちらでお仕事をされているのですよね? 昼食の時間も心、ここにあらずといった様子でしたし」するとルシアンも言い返す。「そういうお前こそ、イレーネ嬢のことが心配でたまらないのではないか? 今日は用もないのに、何度もエントランスまで
書斎に通されたイレーネは疲れ切った様子のルシアンとリカルドを見て首を傾げた。「ルシアン様もリカルド様も本日はお忙しかったのですか? 随分疲れた御様子にみえますが?」「「は……??」」イレーネの言葉に呆れる2人。そしてルシアンは咳払いするとイレーネに質問をした。「イレーネ嬢、先程も尋ねたが……今まで何処に行っていたのだ? 昼食の時間になっても戻ってこないので、何か遭ったのではないかとリカルドが心配していたんだぞ?」「はい!?」いきなり、リカルドは自分の名前を出されて度肝を抜かれた。「ル、ルシアン様……? 一体今の話は……」しかし、リカルドはそこで言葉を切った。何故ならルシアンが自分のことを睨みつけていたからである。「まぁ……そうだったのですか? リカルド様、御心配おかけしてしまい大変申し訳ございませんでした」イレーネは丁寧に謝罪した。「い、いえ。確かにとても心配は致しましたが……こうして無事にお帰りになられたので良かったです。それでイレーネさん、何故ここまで遅くなったのか教えて頂けませんか?」「はい、親切なお方にお会いして、自分の価値を上げてまいりました。ついでにお腹が空いてしまったので、軽く食事を済ませてきたので遅くなってしまいました。でもまさかそれほどまでにリカルド様に心配されていたとは思いませんでした。重ねてお詫び申し上げます」「い、いえ。そんなに丁寧に謝らなくても大丈夫ですよ。イレーネさん」美しいイレーネにじっと見つめられ、思わずリカルドの頬が赤くなる。(何なんだ? リカルドの奴は……? まさか、イレーネ嬢に気があるのか?)自分でリカルドに話をふっておきながら、何故かルシアンは面白くない。そこで大きく咳払いすると、呼びかけた。「ゴホン! ところでイレーネ嬢」「はい、ルシアン様」「先程、自分の価値を上げてきたとか何とか言っていたようだが……一体それはどういう意味なのだね?」「そうです! 私もそのことが気になったのです!」リカルドが口を挟んできた。「はい、本日はルシアン様の契約妻として恥じないように身なりを整えようと思い、ブティックを探しておりました。そこへ2人の親切な女性が現れて、私をマダム・ヴィクトリアというお店に連れて行ってくださったのです。そうそう、そのうちの1人の女性はブリジットという名前の女性でした。確か
「あの……ブリジット様がどうかなさったのですか?」イレーネは首を傾げた。まさかブリジットがルシアンに恋心を抱き、マイスター家に度々赴いていることなど知るはずもなかったからだ。「あの……実はブリジット様は……」リカルドが重い口を開こうとした時。「イレーネ嬢。彼女のことは気にする必要は無い。昨年開かれた社交パーティーでたまたま知り合っただけの女性だ。本っ当に、気にする必要はないからな?」とくに、ブリジットはルシアンが一番苦手なタイプの女性だった。彼女のことを考えただけで、不愉快な気分になってくるルシアンは早々にこの話を終わらせたかったのだ。「そうなのですか? でもルシアン様が気にする必要は無いとおっしゃるのでしたらそうします」人を詮索することも、無理に聞き出すこともしないイレーネはあっさりと頷く。「ああ、是非、そうしてくれ」2人の会話に慌てたのはリカルドだった。「お待ち下さい、それよりももっと肝心なことがあります。イレーネさんはブリジット様に自己紹介なさったのですか?」「いいえ? あの方たちからは名前を聞かれることも無かったので、自己紹介はしておりません」「そ、そうですか……それなら良かったですが……」イレーネの返事に、安堵のため息をつくリカルド。「とにかく……今度から外出した際、遅くなるようなら電話をかけてくれるか? ここの書斎の電話番号と、屋敷の電話番号は知っているのだろう?」ルシアンの言葉に、イレーネはパチンと手を叩いた。「あ、言われてみればそうでしたね? 申し訳ございません、あまり電話をかけることにはなれていなかったものですから。何しろ、『コルト』ではまだあまり電話が普及しておりませんので」「イレーネさん。『デリア』では駅前には公衆電話というものがあります。お金を入れると電話をかけることが出来ます。もし、よろしければ明日私がお供して公衆電話の掛け方を教えてさしあげましょうか?」リカルドの言葉にルシアンは反応する。「いいや、それは無しだ。明日は製粉会社の社長と会食がある。お前もそれに出席するのだ」「え!? そ、そんな話は初耳ですけど!?」「ああ、それはそうだろう。今初めて伝えたからな」そこへイレーネが会話に入ってきた。「あの、私なら1人でも大丈夫ですので。それに明日は外出することは無いと思います。マダム・ヴィクトリア
その日の夕食のこと――「え? 今、何と言ったのだ?」イレーネと2人で向かい合わせに食事をしていたルシアンのフォークを持つ手が止まった。「はい、ルシアン様。どうか私には専属のメイドの方を付けないで下さいと言いました」そしてイレーネは切り分けた肉を口に運び、ニコリと笑みを浮かべる。「いや、しかしそれでは色々と不便だろう? 君を手伝うメイドは必要だと思うが?」現にルシアンのもとには、自分をイレーネの専属メイドにして欲しいと訴え出てきたメイドたちが後を絶たなかった。けれどもルシアンはイレーネ自身に選ばせようと考えていたのだ。「いいえ、私のことなら大丈夫です。今まで自分のことは何でも1人でしてきましたので。第一私は祖父の介護に、メイドとして2年働いていた経験もあります。逆に私に使えるメイドの方たちに気を使ってしまいますわ」「だが、君は俺の……」「はい、1年間という期間限定の雇われ契約妻です。そんな私に専属メイドは分不相応です。それにあまりにも密接だと、この結婚の秘密がバレてしまう可能性もあるかもしれません」「う……た、確かにその可能性はあるが……だが、それでも……」すると、今までに見せたことのないしんみりとした表情を浮かべるイレーネ。「私は1年でこの屋敷を去る身です。あまり親密な関係になると……別れ難くなりますから」「え……?」その言葉にドキリとするルシアン。(まさか……今の言葉は俺に向けて言ってるのか?)しかし、イレーネの口から出てきた言葉は予想外の物だった。「やはり、専属メイドの方がつけば親密な関係になりますよね? お別れする時寂しくなるではありませんか?」「は? ……もしかして、別れ難いとは……自分の専属メイドがついた場合のことを言ってるのか?」「え? ええ、そうですけど?」頷くイレーネ。「あ、ああ……そうか、なるほどね……」思わずルシアンの声が上ずる。(俺は一体何をバカなことを考えていたんだ?)ルシアンは動揺を隠すために、ワイングラスに手を伸ばして一気飲みした。「分かった。イレーネ嬢の言う通りにしよう。君に専属メイドはつけない。それでいいな?」いくら給金を支払うとは言え、この離婚前提の契約結婚でイレーネの人生を狂わせてしまうかもしれない……そう考えると、ルシアンは言うことを聞かざるを得なかった。「ご理解、頂きあ
翌朝――いつものようにイレーネとルシアンはダイニングルームで朝食を取っていた。「イレーネ。今日はどのように過ごすのだ?」ルシアンがパンにバターを塗りながら尋ねる。「はい、午前10時にマダム・ヴィクトリアのお店から品物が届きます。クローゼットの整理が終わり次第、外出してこようかと思っています」そしてイレーネはサラダを口にした。「外出? 一体何処へ行くのだ?」昨日のこともあり、ルシアンは眉をひそめた。「生地屋さんに行こうと思っています」「生地屋……? 布地を扱う店のことだよな?」「はい、その生地屋です」「生地を買ってどうするのだ?」「勿論、自分の服を仕立てる為です」「何!? 自分で服を仕立てるのか? そんなことが出来るのか?」ルシアンの知っている貴族令嬢の中で、イレーネのように服を仕立てる女性が居た試しはない。「はい、私の趣味は自分で服を作ることなので。他にすることもありませんし」イレーネは働き者だった。朝は早くから起きて畑を耕して食費を浮かし、服を仕立てては洋品店に置かせてもらって細々と収入を得ていたのだ。じっとしていることが性に合わないので服作りをしようかと考えたイレーネ。だがルシアンは別の解釈をしてしまった。「イレーネ……」(そうだよな、ここにはイレーネの知り合いは誰一人いない。友人でも出来れば寂しい思いをしなくても良いのだろうが……何しろ1年後には離婚をする。そんな状況で親しい友人が出来たとしても、将来的に気まずい関係になってしまうかもしれないしな……)「ルシアン様? どうされたのですか?」急にふさぎ込むルシアンにイレーネが声をかけた。「い、いや。そうだな……君の考えを尊重しよう。……その、色々と……申し訳ないと思っている……」「え? 何故謝るのですか? 何かルシアン様から謝罪を受けるようなことでもありましたか?」「いいんだ、それ以上言わなくても。ちゃんと分かっている、分かっているんだ。何とか対応策を考える。それまで……待っていてくれないか?」「対応策ですか……?」そして、イレーネはルシアンの言葉の真意を理解などしていない。(もしかして、洋裁道具を揃えて下さるということかしら? だったらこの際、ルシアン様のご好意に甘えてお願いしておきましょう)「分かりました、ではお待ちしておりますね。よろしくお願いいた
午前10時――その頃、イレーネはエントランスでマダム・ヴィクトリアの商品が届くのを待っていた。「あれ!? イレーネ……じゃなかった。イレーネ様、こんなところで何をしているんです?」掃除をするためにエントランスへやってきたジャックはイレーネが1人でエントランスに立っていることに気づき、声をかけた。「あ、ジャックさん。こんにちは。その節はお世話になりました」「や、やめてください! 俺に敬語なんか使わないでくださいよ! あのときは本当に申し訳有りませんでした!」そして深々と頭を下げる。丁寧に挨拶するイレーネにジャックが恐縮するのは無理無かった。それに、本来であればクビにされてもおかしくないようなことをしてしまったのに、ジャックは咎められることすら無かったのだ。『ジャックさんは、そのような方ではありません。とても親切な人で、丁寧に仕事を教えてくれます』あのときの言葉がジャックの耳に蘇る。一方のイレーネはのんびりした様子でジャックの質問に答えた。「もうそろそろ、マダム・ヴィクトリアのお店の方が尋ねてくる頃なので、お出迎えする為にこちらでお待ちしていました」「ええ!? そ、そんなことは我々使用人に任せてくださいよ! 後、俺なんかに敬語はやめて下さい! こんなことがルシアン様に知られたら……」「俺がどうかしたのか?」その時、タイミング悪くエントランスにルシアンの声が響き渡る。「ひえええ! ル、ルシアン様!」ジャックが情けない声を出した。「あ、ルシアン様。これからお出かけですか? リカルド様もご一緒なのですね?」イレーネは笑顔でルシアンとリカルドに声をかける。「ああ、これから取引先に行ってくるのだが……こんなところで2人で何をしていたのだ?」ルシアンはイレーネとジャックの顔を交互に見る。「あ、あの……そ、それは……」オロオロするジャックを見て、リカルドが口を挟んできた。「ルシアン様の外出をお見送りするためにこちらにいらっしゃったのですか?」「何? そうなのか?」ルシアンの声がほころびかけ……イレーネが口を開いた。「もうすぐ、マダム・ヴィクトリアのお店の方たちがいらっしゃるので、こちらでお待ちしておりました。そこへジャックさんが声をかけて下さったのです」正直に答えるイレーネの言葉にルシアンの眉が上がる。「な、なるほど……それ
10時半――「どうもありがとうございました」イレーネは、マダム・ヴィクトリアの荷物を部屋まで運んでくれた2人の男性店員にお礼を述べる。彼らはルシアンとリカルドが屋敷を出たのと、入れ替わるように商品を届けに訪れたのだ。「いいえ。それではこれからもまた当店をご贔屓にお願いいたします」「いつでもご来店、お待ちしておりますね」男性店員達は笑顔で挨拶する。「はい、こちらこそどうぞよろしくお願いいたします」イレーネも丁寧に挨拶を返すと、店員たちはお辞儀をすると部屋を出て行った。――パタン扉が閉ざされ、部屋にひとりになるとイレーネはテーブルの上を見た。そこには先程届けられた品物が入った箱や紙袋が全部で10個ほど乗っている。「さて、それでは品物の整理を始めようかしら」イレーネは腕まくりをすると、すぐに荷物を解き始めた――****ボーンボーンボーン12時を告げる鐘が部屋に鳴り響く頃、ようやくイレーネは荷物整理を終えた。「ふぅ……すごい量だったわ。こんなに沢山買い物をしたことなど無かったものね。それにしても、時間が経つのは早いのね。もう12時だなんて」その時――キュルルルル……イレーネのお腹から小さな音が鳴る。「そう言えば、お昼の食事はどうなってるのかしら……? 私は頂くことが出来るのかしら?」使用人の手伝いを断っているイレーネ。リカルドが不在の時は食事が提供されるのかどうかが不明だった。貴族令嬢ながら、貧しい生活をしていたイレーネは使用人に頼み事をするという考えが念頭に無かったのである。「お昼を出して下さいとお願いするのは図々しいわよね……かと言って厨房を借りるのもおかしな話かもしれないし……。それなら外食に行きましょう」幸い、イレーネには前払いしてもらった給金がある。「早速出かけましょう。ついでに生地屋さんを見てきましょう」イレーネは外出の準備を始めた――**** 一方、その頃厨房では使用人たちが集まり、揉めていた。「だから、私がイレーネ様の食事を届けに行くって言ってるでしょう!?」1人のメイドが金切り声を出す。「いや! 俺だ! 俺がイレーネ様の食事を届ける!」フットマンが喚く。「何言ってるんだ!? お前は今日は薪割りの仕事だっただろう? 俺が行く!」「そっちこそ、何言ってるのよ! 中庭の掃除、終わってないで
イレーネ達が馬車の中で盛り上がっていた同時刻――ルシアンは書斎でリカルドと夕食をともにしていた。「ルシアン様……一体、どういう風の吹き回しですか? この部屋に呼び出された時は何事かと思いましたよ。またお説教でも始まるのかと思ったくらいですよ?」フォークとナイフを動かしながらリカルドが尋ねる。「もしかして俺に何か説教でもされる心当たりがあるのか?」リカルドの方を見ることもなく返事をするルシアン。「……いえ、まさか! そのようなことは絶対にありえませんから!」心当たりがありすぎるリカルドは早口で答える。「今の間が何だか少し気になるが……別にたまにはお前と一緒に食事をするのも悪くないかと思ってな。子供の頃はよく一緒に食べていただろう?」「それはそうですが……ひょっとすると、お一人での食事が物足りなかったのではありませんか?」「!」その言葉にルシアンの手が止まる。「え……? もしかして……図星……ですか?」「う、うるさい! そんなんじゃ……!」言いかけて、ルシアンはため息をつく。(もう……これ以上自分の気持ちに嘘をついても無駄だな……。俺の中でイレーネの存在が大きくなり過ぎてしまった……)「ルシアン様? どうされましたか?」ため息をつくルシアンにリカルドは心配になってきた。「ああ、そうだ。お前の言うとおりだよ……誰かと……いや、イレーネと一緒に食事をすることが、俺は当然のことだと思うようになっていたんだよ」「ルシアン様……ひょっとして、イレーネ様のことを……?」「イレーネは割り切っているよ。彼女は俺のことを雇用主と思っている」「……」その言葉にリカルドは「そんなことありませんよ」とは言えなかった。何しろ、つい最近イレーネが青年警察官を親し気に名前で呼んでいる現場を目撃したばかりだからだ。(イレーネさんは、ああいう方だ。期間限定の妻になることを条件に契約を結んでいるのだから、それ以上の感情を持つことは無いのだろう。そうでなければ、あの家を今から住めるように整えるはずないだろうし……)けれど、リカルドはそんなことは恐ろしくて口に出せなかった。「ところでリカルド。イレーネのことで頼みたいことがあるのだが……いいか?」すると、不意に思い詰めた表情でルシアンがリカルドに声をかけてきた。「……ええ。いいですよ? どのようなこと
イレーネが足を怪我したあの日から5日が経過していた。今日はブリジットたちとオペラ観劇に行く日だった。オペラを初めて観るイレーネは朝から嬉しくて、ずっとソワソワしていた。「イレーネ、どうしたんだ? 今日はいつにもまして何だか楽しそうにみえるようだが?」食後のコーヒーをイレーネと飲みながらルシアンが尋ねてきた。「フフ、分かりますか? 実はブリジット様たちと一緒にオペラを観に行くのです」イレーネが頬を染めながら答える。「あ、あぁ。そうか……そう言えば以前にそんなことを話していたな。まさか今日だったとは思わなかった」ブリジットが苦手なルシアンは詳しくオペラの話を聞いてはいなかったのだ。「はい。オペラは午後2時から開幕で、その後はブリジット様たちと夕食をご一緒する約束をしているので……それで申し訳ございませんが……」イレーネは申し訳なさそうにルシアンを見る。「何だ? それくらいのこと、気にしなくていい。夕食は1人で食べるからイレーネは楽しんでくるといい」「はい、ありがとうございます。ルシアン様」イレーネは笑顔でお礼を述べた。「あ、あぁ。別にお礼を言われるほどのことじゃないさ」照れくさくなったルシアンは新聞を広げて、自分の顔を見られないように隠すのだった。ベアトリスの顔写真が掲載された記事に気付くこともなく――****「それではイレーネさんはブリジット様たちと一緒にオペラに行かれたのですね?」書斎で仕事をしているルシアンを手伝いながらリカルドが尋ねた。「そうだ、もっとも俺はオペラなんか興味が無いからな。詳しく話は聞かなかったが」「……ええ、そうですよね」しかし、リカルドは知っている。以前のルシアンはオペラが好きだった。だが2年前の苦い経験から、リカルドはすっかり歌が嫌いになってしまったのだ。(確かにあんな手紙一本で別れを告げられてしまえば……トラウマになってしまうだろう。お気持ちは分かるものの……少しは興味を持たれてもいいのに)リカルドは書類に目を通しているルシアンの横顔をそっと見つめる。そしてその頃……。イレーネは生まれて初めてのオペラに、瞳を輝かせて食い入るように鑑賞していたのだった――****――18時半オペラ鑑賞を終えたイレーネたちは興奮した様子で、ブリジットの馬車に揺られていた。「とても素敵でした……もう
――18時ルシアンが書斎で仕事をしていると、部屋の扉がノックされた。「入ってくれ」てっきり、リカルドだと思っていたルシアンは顔も上げずに返事をする。すると扉が開かれ、部屋に声が響き渡った。「失礼いたします」「え?」その声に驚き、ルシアンは顔を上げるとイレーネが笑みを浮かべて立っていた。「イレーネ! 驚いたな……。てっきり、今夜は泊まるのかとばかり思っていた」「はい、その予定だったのですがリカルド様がいらしたので、一緒に帰ってくることにしたのです」イレーネは答えながら部屋の中に入ってきた。「ん? イレーネ。足をどうかしたのか?」ルシアンが眉を潜める。「え? 足ですか?」「ああ、歩き方がいつもとは違う」ルシアンは席を立つと、イレーネに近付き足元を見つめた。「あ、あの。少し足首をひねってしまって……」「まさか、それなのに歩いていたのか? 駄目じゃないか」言うなり、ルシアンはイレーネを抱き上げた。「え? きゃあ! ル、ルシアン様!?」ルシアンはイレーネを抱き上げたままソファに向かうと、座らせた。「足は大事にしないと駄目だ。ここに座っていろ。今、人を呼んで主治医を連れてきてもらうから」「いいえ、それなら大丈夫です。自分で手当をしましたから」イレーネは少しだけ、ドレスの裾を上げると包帯を巻いた足を見せる。「自分で治療したのか?」 包帯を巻いた足を見て、驚くルシアン。「はい、湿布薬を作って自分で包帯を巻きました。シエラ家は貧しかったのでお医者様を呼べるような環境ではありませんでしたから。お祖父様には色々教えていただきました」「イレーネ……君って人は……」ルシアンはイレーネの置かれていた境遇にグッとくる。「でも……まさか、ルシアン様に気付かれるとは思いませんでしたわ」「それはそうだろう。俺がどれだけ、君のことを見ていると思って……」そこまで言いかけルシアンは顔が赤くなり、思わず顔を背けた。(お、俺は一体何を言ってるんだ? これではイレーネのことが気になっていると言っているようなものじゃないか!)だがいつの頃からか、イレーネから目を離せなくなっていたのは事実だ。「ルシアン様? どうされたのですか?」突然そっぽを向いてしまったルシアンにイレーネは首を傾げる。「い、いや。何でもない」「そうですか……でも、嬉しいで
高級ホテルの一室で、ベアトリスが台本を呼んでいると部屋の扉がノックされた。――コンコン「帰ってきたようね」台本を置くと、ベアトリスは早速扉を開けに向かった。ドアアイを覗き込むと、すぐにベアトリスは扉を開けて訪ねてきた人物を迎え入れた。「お帰りなさい、カイン。入って頂戴」「ああ」カインは頷くと部屋の中へ入り、疲れた様子でソファに座った。「お疲れ様、それで家の様子はどうだったのかしら?」カインの向かい側のソファに座ると早速質問する。「君は、あの家は空き家になっているだろうと俺に言ったが、人が住んでいたぞ? しかも女性だ」「え? 嘘でしょう?」その言葉にベアトリスは目を見開く。「嘘なものか。あの家には若い女性が住んでいた。ブロンドの長い髪が印象的だったな。……かなり美人だった。それに何故か警察官がいて、職務質問をされたよ」「そんな……あの家に人が住んでいたなんて……まさか、ルシアンは家を手放したっていうの? ずっとこの家は残しておくって約束してくれていたのに……」ベアトリスは悔しそうに唇を噛む。「俺が職務質問をされた話はどうでもいいのかよ……? まぁいい。どうせ君は俺には興味が無いのだからな。家を残しておくという話は2人が恋人同士だった頃のことだろう? とっくに手放していたっておかしな話ではないはずだ。そもそも彼を捨てたのは君の方だろう? ベアトリス……まさか、まだその男に未練があるのか?」眉をひそめるカイン。「……あの時は、別れたくて別れたわけじゃないわよ。彼の祖父は私のことを軽蔑して、私達の仲を反対していたのだから。それに、舞台のオファーは私にようやく回ってきたチャンスだったのよ」「だから、引き止める恋人を捨てて渡航したんだろう? 置き手紙一つだけ残して」「そうよ……だって、本当に必死だったのよ。失ったものは大きかったけど、私はこの通り成功したわ。それも今では世界の歌姫と呼ばれるほどにね」「それで今回かつての恋人がいた地『デリア』に来て、未練が募ってきたってわけか?」「別に未練だとか、そういうわけではないわよ!」ベアトリスはカインを睨みつけた。「だったら何故俺にあの家の様子を見に行かせた? まだ彼が自分を忘れられずに家を手放していないと考えたからだろう?」「……」しかし、その問いにベアトリスは答えない。「君は置
リカルドはとても焦っていた。(一体、あの状況は何なのだ……)自分で馬車を走らせ、リカルドはここまでやってきた。するとイレーネが警察官と共に見知らぬ青年と対峙している場面に遭遇したのだ。(何故イレーネさんは警察官と一緒にいるのだろう? それにあの青年は誰だ? 何やら問い詰められているようにも見える……とにかく、今は隠れていた方が良さそうだ)そう判断したリカルドは、大木の側に馬車を止めてると急いで身を隠して様子を伺っていたのだ。「おや? 帰って行くようだ」少しの間、見ていると青年はそのまま立ち去って行った。そしてイレーネと警察官は何やら話をしている。その姿は妙に親し気に見えた。(気さくなタイプの警察官なのかもしれないな……)そんなことを考えていると、警察官が自分の方を振り向いた。「……というわけで、そこの方。貴方もいい加減出てきたらどうですか?」(え!? バレていた……!? そ、そんな……!)しかし、相手は警察官。下手な行動は取れないと判断したリカルドは観念して木の陰から出てきた。「は、はい……」「まぁ! リカルド様ではありませんか? どうしてそんなところに隠れていたのですか? どうぞこちらへいらして下さい」イレーネが笑顔で呼びかける。「はい、イレーネさん」おっかなびっくり、リカルドは二人の前にやって来た。一方、驚いているのはケヴィンだった。「ひょっとして、お二人は知り合い同士なのですか?」「はい、そうです。こちらの方はリカルド・エイデン様。この家の家主さんです」イレーネは笑顔でケヴィンに紹介する。そう、イレーネから見ればリカルドはこの家の家主に該当するのだ。「え? 家主さんだったのですか!?」ケヴィンはリカルドを見つめる。「は、はい……そうです……」(家主? 確かに私はこの家の家主のような者だが……何故、ルシアン様の名前を出さないのだろう? ハッ! そういえば、お二人は世間を騙す為の結婚……つまり、偽装結婚をする関係だ。そして目の前にいるのは警察官。もしかして偽装結婚は犯罪に値するのだろうか? それでイレーネさんはルシアン様の名前を出さなかったのかもしれない!)心配性のリカルドは目まぐるしく考えを巡らせ、自分の中で結論付けた。「はい、私はイレーネさんにこの屋敷を貸している(今は)家主のリカルド・エイデンです」早
――16時「大分、痛みがひいたみたいね」イレーネは立ち上がると歩いてみた。「これなら農作業用具を片付けられそうだわ」エプロンを身に着けている時。――コンコン突然部屋にノックの音が響き渡った。「あら? 誰かしら? もしかしてルシアン様かしら」イレーネは少しだけ足を引きずりながらへ向かうとドアアイを覗き込み、驚いた。「え? ケヴィンさん?」何と訪ねてきたのはケヴィンだったのだ。イレーネは慌てて扉を開けた。「いきなり訪ねてすみません、イレーネさん」ケヴィンはイレーネの姿を見ると笑みを浮かべた。「ケヴィンさん、一体どうなさったのですか? まだ制服姿ということはお仕事中ですよね?」「ええ、そうなのですが……イレーネさんの怪我が気になってしまって、訪ねてしまいました。大丈夫ですか?」「ええ。自分で手当をしたので大丈夫ですわ」イレーネは包帯を巻いた足を少しだけ上に上げてみせた。「そうでしたか……それなら良かったです。あの、実はコレを届けたかったのです」ケヴィンは恥ずかしそうに紙袋を差し出してきた。「あの、これは……?」躊躇いながら受け取るイレーネ。「はい、ドライレーズンです。確か、今夜はレーズンパンを作るつもりだと仰っていましたよね?」「まぁ……それでは、わざわざ買って持ってきて下さったのですか? それではすぐに代金を支払いますね」イレーネが部屋に取って返そうとした時。「あ! 待ってください!」突然呼び止められた。「どうかしましたか?」「イレーネさん。お金なんて結構ですよ」「ですが、それでは私の気持ちが収まりませんわ」「それでしたら……あの、もしよければ……今度イレーネさんが焼いたパンを僕にも分けていただけたら嬉しいです。僕がパンを好きなのは御存知ですよね?」「そうですね。それでは今、持ってきますね。レーズンを入れていないパンなら、もう焼いていたんです」「本当ですか? ありがとうございます」笑顔になるケヴィンを玄関に残し、イレーネは家の中へ入っていった。「どうもお待たせいたしました。どうぞ、ケヴィンさん」紙袋にパンを入れたイレーネがケヴィンの元へ戻って来ると、差し出した。「うわあ……パンの良い匂いがしますね。それにまだ温かい」「はい、30分ほど前に焼き上がったところですから」「ありがとうございます。味わっ
「どうもありがとうございました」別宅の前に馬車が到着し、イレーネは馬車代を支払うと痛みを押さえて降り立った。「大丈夫ですか? お客様」男性御者が心配そうに声をかけてくる。「ええ、大丈夫です。ご心配頂きありがとうございます」「では、失礼します」互いに挨拶を交わすと馬車は走り去っていった。「……何だか痛みが酷くなってきたみたいだわ。早く治療しなくちゃ」痛む足を引きずりながら、イレーネは家の中へ入っていった――** 帰宅したイレーネは、湿布を作るために台所で材料を探していた。「え〜と、小麦粉にビネガーは……あ、あったわ」早速小麦粉をビネガーと混ぜて練り合わせると用意していたガーゼに塗ると、ガーゼを痛めた足首にそっとあてる。「つ、冷たい……でも我慢我慢」自分に言い聞かせ、包帯を巻きつけた。「……出来たわ。どうかしら?」早速イレーネは少しだけ歩いてみた。「だいぶ痛みは和らいだみたいね。やっぱりお祖父様直伝の湿布は効果があるわ」窓の外を見ると、そこには農作業用道具が畑の側に置かれている。「……こんな状態じゃなければ、マイスター家に戻っていたのだけれど……」買い物から帰宅後は、すぐに畑仕事が出来るように用具を出して出掛けてしまっていたのだ。「痛みがひいたら、片付けをしなくちゃ」イレーネはポツリと呟いた。****「今日もイレーネさんは別宅に泊まられるのですね」仕事をしているルシアンに紅茶を注ぎながらリカルドが尋ねた。「そうだ。……別宅という言い方をするな」ムッとした様子でルシアンがリカルドを見る。「それは失礼致しました」「全く……イレーネはあの家が好きなようだ。毎回楽しそうに行っているからな」「つまらなそうな顔をして出掛けられるより、余程良いではありませんか」リカルドの言葉に、ルシアンは呆れ顔になる。「あのなぁ、俺はそんなことを話しているんじゃない。……もしかして、あの場所には何かあるんじゃないだろうか?」「何かとは?」「それが分からないから、何かと言ってるんだろう?」「ルシアン様……」じっとリカルドはルシアンを見つめる。「な、何だ?」「本当に、イレーネさんのことを気にかけてらっしゃるのですねぇ?」「それは当然だろう? 何しろ彼女とは契約を結んだ婚約者の関係だからな。今月開催する任命式で、正式にイレーネ
イレーネがベアトリスをじっと見つめていた時。「サイン下さい!」突然イレーネの後ろにいた男性が前に進み出てきて、ぶつかってきた。「キャア!」小柄なイレーネはそのまま、前のめりに転んでしまった。はずみで持っていた買い物袋も地面に落ち、袋の中からリンゴがコロコロとベアトリスの足元に転がっていく。「まぁ! 大変!」ファンにサインをしていたベアトリスはリンゴを拾うと、イレーネに駆け寄ってきた。「大丈夫ですか?」イレーネに手を差し伸べるベアトリス。「は、はい……ご親切にありがとうございます」その手を借りてイレーネは立ち上がると、次にベアトリスはぶつかってきた男性を睨みつけた。「ちょっと! 貴方はレディにぶつかって転ばせてしまったのに、手を貸すどころか謝罪も出来ないのですか!?」「え? す、すみません!!」ベアトリスにサインをねだろうとした男性はオロオロしている。そんな男性を一瞥するとベアトリスはイレーネに笑みを浮かべた。「申し訳ございません。お詫びの印にサインをしてさしあげますわ。どれにすればよろしいですか?」「え? サ、サインですか!?」そんなつもりで並んでいなかったイレーネは当然戸惑い……ふと、閃いた。「あの、でしたらこのメモに書いていただけませんか?」イレーネは買い物メモをひっくり返して手渡した。「あら? これにですか?」怪訝そうな表情を浮かべるベアトリス。「はい、まさかこのような場所で大スターにお会いできるとは思ってもいなかったので他に持ち合わせがないのです。でも、額に入れて飾らせていただきます!」「まぁ。そこまで言って頂けるなんて嬉しいわ。ではこのメモにサインしましょう」ベアトリスはイレーネからメモを受け取ると、サラサラとサインをして手渡してきた。「はい、どうぞ」「ありがとうございます……一生の宝物にさせていただきますね」「フフフ。大げさな方ね」そのとき――「劇団員の皆様! お待たせ致しました! 迎えの馬車が到着いたしました!」スーツ姿の男性が大きな声で呼びかけてきた。「行こう、ベアトリス」そこへ黒髪の青年が現れて、ベアトリスに声をかけてきた。「そうね、カイン」そしてベアトリスはカインと呼んだ男性と共に、その場を去って行った。「あ〜あ……サインもらいそびれてしまった……」「やっぱりベアトリスは美
あの嵐の日から、早いもので3ヶ月が経過していた。イレーネは半月に一度は、リカルドから譲り受けた家に通うようになっていたのだった。「それでは、今日もあの家に行くつもりなのか?」朝食の席でルシアンがイレーネに尋ねる。「はい、行ってきます」笑顔で返事をするイレーネ。「だが、何もそんなに頻繁に行かなくても……」言葉をつまらせるルシアンにイレーネは理由を述べた。「あの家は空き家ですから、定期的に訪れて管理をしないと家の維持は難しいですから」「そうか……」正直に言うとルシアンは、イレーネにあまりあの家には通って欲しくは無かった。その理由はただ一つしかない。「心配しなくても大丈夫です。明日にはまた戻りますので」「……分かった。なら気をつけて行くといい」「はい、ルシアン様」イレーネは笑顔で返事をした。**** イレーネは今夜の食材を買うために、1人で町に出てきていた。「えっと……バターは買ったし……あ、そうだわ。ドライフルーツを買わなくちゃ。今夜はレーズンパンを作るんだったわ」買い物メモを確認すると、イレーネはポケットにしまった。「それにしても、今日の駅前は凄い人手ね。一体何があったのかしら?」駅前には大勢の人々が集結していた。しかも大騒ぎになっており、警察官たちまで警備にあたっている。「もしかして、有名人でも来ているのかしら?」好奇心旺盛なイレーネは、一度気になったものは確認してみなければならない性格をしている。「ドライフルーツは後で買えるものね……行ってみましょう」そしてイレーネは人だかりの方へ足を向けた。**「皆さん! 落ち着いて! 押さないで下さい!」「道を開けて下さい!」騒ぎの中心から大きな声が聞こえている。「サインして下さい!」中にはサインをねだる声まである。「え? サイン? もしかして有名人でも来ているのかしら?」イレーネは誰が来ているのか、見たくても人だかりが出来ているので確認することも出来ない。そのとき――「あれ? イレーネさんじゃありませんか!」不意に声をかけられた。「え?」驚いて振り向くと、警察官姿のケヴィンが自分を見つめている。「まぁ! ケヴィンさん、こんにちは。偶然ですわね」「こんにちは。もしかしてイレーネさん……見物に来たのですか?」「は、はい……。何事か興味があったの